『半僧半俗ノート 〜日常と仏教の交差点〜』をお読みの皆様、ご無沙汰しております。
実を申しますと、しばらくの間このブログの更新を完全に「サボって」おりました。
日々の保育の現場や組織の運営など、目の前の仕事の波にすっかり飲み込まれてしまい、「毎週頑張って更新しよう!」という自分の決意に、気力と体力がどうしても追いつかなくなってしまったのです。
「やろうと決めたのに、できなかった」
「あぁ、また自分はサボってしまった」
読者の皆様も、「毎日ランニングしよう」「資格の勉強を続けよう」と決心したのに、忙しさの中で途切れてしまい、激しい自己嫌悪に陥った経験が一度はあるのではないでしょうか。
自分が決めたルールを守れず、フェードアウトしていく時のあの気まずさと苦しさ。
実は仏教の視点から見ると、この苦しさの正体は「決めたことを完璧にこなせる自分」に対する【執着】なのです。
お釈迦様は、極端な苦行で身体を壊しかけた時、村の娘が差し出してくれた一杯の乳粥を飲み、ある真理にたどり着きました。それが【中道(ちゅうどう)】という教えです。
中道とは、「極端に偏らない、ちょうどいいバランス」のこと。
お釈迦様はこれを、楽器の「弦」に例えました。
「弦は、張りすぎれば切れてしまう。しかし、緩めすぎれば音は鳴らない。ちょうど良い張りの時にだけ、美しい音が鳴るのだ」と。
私たちが「頑張ろう!!」と目標を立てる時、往々にして生活の弦を「張りすぎる」傾向があります。
ブログが書けなかったり、ランニングをサボってしまった時。それはあなたが「怠け者」でダメな人間だからではありません。「あ、ちょっと今の自分には弦を張りすぎていたな」ということを、心と体が教えてくれた「ただのサイン」に過ぎないのです。
弦が切れてしまう前に、休んで緩めることができた。それは決して罪悪感を抱くようなことではありません。
理想通りにいかない不完全な自分(凡夫)を、「まあ、そういう時もあるよね」と笑って許し、執着を手放す。そして、弦を少しだけ緩めて、また今日からポロロンと日常の音を鳴らし始めれば良いのです。
少し充電期間をいただき、私の弦もちょうど良い具合に緩まりました。
今日からまた、マイペースに言葉を紡いでいこうと思います。皆様もどうか、ご自身の弦を張りすぎず、心穏やかな週末をお過ごしください。
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