『半僧半俗ノート 〜日常と仏教の交差点〜』をお読みの皆様、こんにちは。少し更新をお休みしておりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
実は今、私は修験道の聖地である奈良県の大峰山(おおみねさん)に来ています。この記事が公開される頃、私はまさに「裏行場(うらぎょうば)」と呼ばれる過酷な修行の真っ只中にいるはずです。
大峰山の行場といえば、断崖絶壁から身を乗り出す「西の覗き」などが有名ですが、裏行場はさらに険しく、文字通り命がけで岩壁をよじ登り、己の肉体の限界と向き合う過酷な場所です。
これを聞いて、「なぜ現代にそんな苦行を?」と思われるかもしれません。
確かにその通りなのですが、現代という時代だからこそ、あえて時々「身を削るような行」に挑むことには、大きな意味があると感じています。
私たち現代人は、日々ものすごい量の情報を処理し、常に「明日の仕事どうしよう」「昨日のアレは失敗だったかも」と、頭(思考)をフル回転させて生きています。
仏教でいう「計らい(自分の頭でなんとかしようとする考え)」がパンパンに膨れ上がり、過去や未来にばかり意識が飛んで、「今、ここ」を生きることができていません。
しかし、一歩足を滑らせれば谷底へ真っ逆さまという絶壁にへばりついている時、「明日の仕事の段取り」や「人間関係の悩み」などを考える余裕は1ミリもありません。
「右手をどの岩にかけるか」
「左足をどこに踏ん張るか」
強制的に、究極の「今」である【刹那(せつな)】に引き戻されるのです。
日常の会話で「刹那的」というと、後先考えずに快楽に溺れるようなネガティブなイメージで使われがちですよね。しかし、本来の仏教語としての「刹那」は、時間の最小単位を表します。
過去を悔やむことも、未来を憂うこともなく、「命が存在する今この一瞬」に完全に集中すること。それこそが「刹那を生きる」という、非常に力強い教えなのです。
過酷な身体的負荷と恐怖が、膨れ上がった「頭の思考」を強制的にシャットダウンさせ、体を「刹那」へと引き戻してくれる。これこそが、悩みや迷いから解放された、ある種の究極のクリアな境地なのです。
もちろん、皆様に「絶壁を登りましょう」とお勧めしているわけではありません。
ただ、もし「最近、頭の中が悩みや考え事でいっぱいで苦しいな」と感じたら、目の前の床を無心でピカピカに磨き上げたり、熱いサウナにざぶんと浸かって思考が止まるまで汗を流したりしてみてください。
「頭」を休ませ、「体」を使って「刹那」の感覚を取り戻す。それもまた、日常の中でできる立派な「行(ぎょう)」なのです。
さて、無事に下山して、また次回のブログでお会いできることを祈りつつ(笑)。
今週も、皆様にとって心穏やかな週末となりますように。
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